不定期 宿長の昔話。
前回まではゲストハウスに興味を持つまでの話。
今回は岡山のゲストハウスで実際に働き経験を積む話です。
やっぱり写真と文章多めです。
時には昔の話を(1) - NEMARU(ねまる)のにいがた発見旅
時には昔の話を(2) - NEMARU(ねまる)のにいがた発見旅
2014年初頭。
岡山県倉敷市の美観地区にある『有鄰庵』で働けることとなりました。
沖縄から新潟市のシェアハウスに戻り、荷物を片付けて電車で岡山に出発します。
倉敷駅に到着。
駅前の商店街を10分程歩いて抜けると、いきなり時代劇の撮影所みたいな古民家が立ち並ぶ美観地区が広がります。
美観地区は倉敷市の条例によって建造物や景観が守られた地区です。
まるで昔にタイムスリップしたかのよう。
古民家の一軒一軒に普通に人が住んでいるのですから尚凄い。
観光地であり住宅地なのです。
地区の真ん中には水路が通っており、船に乗ることもできます。
美観地区といえば大原美術館が有名です。が、私は知りませんでした。
後に勉強のために何度か足を運びました。
私がお世話になるゲストハウスの有鄰庵。
美観地区にあるこちらも昔ながらの古民家です。
夜は宿営業、昼はカフェを営業していました。
ちなみに宿スタッフとカフェスタッフは別々です。
あ、初めに書いておきますが2014年当時の話なので現在とは(多分)色々と異なっていることをご理解ください。
有鄰庵はメインの宿スタッフが3人ほど居て、後はヘルパーさんが数人います。
普通の宿と違うのは、宿泊ゲストさん全員に同時刻(18:30)にチェックインしていただきます。
チェックインでは自己紹介、部屋の振り分け、館内紹介をします。
部屋は基本、相部屋の和室です。
チェックインが終わると自由行動となりますが、自己紹介しあったゲストさん同士仲良くなり、一緒にご飯食べに行ったりご飯を作ったり、銭湯に行ったりすることが多い印象です。
すぐに友達ができるということが魅力的な、全国から人が集まるコミュニケーション重視のゲストハウス。
そんな宿なので無休でもいいので数ヶ月住み込んで滞在したいという人がヘルパーとして働いていました。
私はというと、有鄰庵の雑用ヘルパー兼、立ち上げ中である2号店のウェブページ監修として入りました。
それまでに出来ていたウェブページは制作会社に委託して作っていたもので、UFOみたいなアイコンを使っていたり良くわからないコンセプトだったので全て作り直しさせました。
瀬戸内海に面した岡山は晴れの国と言われていますが、まさにその通り。
私が働き始めたのが真冬の2月、新潟では連日雪が降っている季節ですが、岡山は連日晴れ続き。
非常に過ごしやすかったのを覚えています。
そのかわり放射冷却で夜と朝は結構寒い感じです。
雪が降らなく空気もカラッとしているので古い家が残りやすいのでしょうね。
新潟なら雪の重みで潰れているような古民家も多く、築100年超えなんて普通にありました。
近くの神社では節分のイベントも行われていました。
そんな岡山でこの年は雪が積もりました。
私が新潟から引っ張ってきたのでしょうか。
雪国出身の私。
余裕ぶって神社を歩いていると、帰りの階段で足を滑らせて尻を強打。
一週間痛みが続きました。
油断はしてはいけない。
このときお金の節約のため、夕食は毎日豆腐一丁と地酒お猪口一杯。
毎食味変のため味噌を乗せたり醤油をかけたりしていました。
私がウェブページを監修している2号店。
隣町の早島町という直径2kmほどの小さな町にある古民家を、スタッフはもちろん、有鄰庵に泊まったゲストさんを連れて一緒に日々セルフリノベーションしていました。
みんな素人なので手探りで楽しみながら作業。
改装担当リーダーの支持で各々作業していました。
改装中のこちらは築150年の平屋。
外から見るとトタンの屋根ですが、屋根裏上ると茅葺きであることがわかります。
防火の観点から屋根裏は使えないため、1階のみ使えるとても小さな古民家です。
私もお手伝いに参加。
のこぎりなんていつ使ったかも覚えてないガチ素人です。
2号店はおそらく農家民宿申請。
”おそらく”というのは私は申請には携わってないため。
同じ申請でも要項は各都道府県ごとに異なるため、「〇〇県ではOKで××県ではNG」ということもあります。
2号店には農業担当スタッフがいて、昔、早島町で盛んだったが現代では稲作に取って代わられた”い草”を復活させるという名目で動いていました。
い草というのは畳の材料です。
そんな2号店で改装、有鄰庵に戻ってヘルパー業務を行う毎日。
私は元々ゲストハウス立ち上げに興味があったため、2号店を手伝う比重を高めていきました。
い草を感じられるゲストハウスということで、とにかく畳を敷き詰めました。
館内い草の香りでいっぱいです。
これまで携わってきた改装リーダーが2号店の宿長になると思っていたのですが、完成直前で辞め、代わりの人が1代目宿長になります。
私はというとサポートという形で有給スタッフになり、様々な準備を重ねオープンを迎えます。
みんなで考えたゲストハウスの名前は『GuestHouse I....,(ゲストハウス イグサ)』(以下、いぐさ)。
この"I....,"は早島町特産だった"いぐさ"の頭文字の"I(アイ)"。
いぐさのように成長していつか”Igusa"になる、という意味で名付けました。
ぶっちゃけ捻り過ぎて分かりにくかったと思います。
最初の頃は有鄰庵と同じ様に日中はカフェを営業していました。
オープンしたはいいものの、中々ゲストさんが訪れません。
というのも、有鄰庵のある観光地の倉敷市美観地区とは異なり、いぐさのある早島町は住民の住環境に力を入れていた町。
小学校で当時ではまだ普及しきってないタブレット端末を導入するなど進んでいます。
しかし観光としては弱い町でした。
どうやって早島町に人を呼ぶか、とにかく悩みました。
1代目宿長といつも話し合っていました。
ただ1代目宿長はコミュ力があったため、知り合いを呼んでイベントを開催したりして知名度を少しでも上げていきます。
私はネット予約などの運営や宿泊準備等で裏方業務。
私が外出している間に唐突なテレビの取材が来てたり。
ローカルの街歩き番組だったため事前連絡はありませんでした。
1代目宿長が興味あった自然農にも一緒に手を付けてみましたが、大して続きませんでした。
というか飽きすぎなんですよ、1代目は(私も)。
今でも思い出すのは、初期に泊まりに来たゲストさんのひとりが玄関前で「えっここ!?」と悪い意味で驚いていたこと。
改装はしましたが、それでもホント古民家だったので。
宿側とゲストさん側で想像する宿のギャップをどう埋めるかでも悩みました。
それはネット上にとにかく情報を出すことで埋めることしかできませんでした。
程なくして1代目宿長が自らその職を降りて通常スタッフになります。
次の2代目宿長を誰にするかの会議がありました。
私自身のゲストハウス経営を目指していたため、決心し立候補して2代目宿長となりました。
このときの倉敷美観地区は美しい緑。
私は有鄰庵の業務から完全に離れ、早島町のいぐさに住み込みます。
宿長をするとは言っても私は1代目とは違ってコミュ力低いですし、今までネット業務が主だったためどうすればよいか分かりません。
スタッフを抱えるのも初めてです。
そして重要なのは、ここからどうやっていぐさに人を呼び込むか…。
いぐさのある早島町は観光地ではないですが、四国や瀬戸内海の港町へ向かう電車が通る駅があったため、人を呼び込める希望はありました。
特に瀬戸内国際芸術祭が開催されているので需要はあるはず。
考えた結果、とにかくいぐさで『できること全部やってみる!』ことでした。
『早島○○部』という活動を作り、とにかくイベントを開催しました。
これは映画を見てみる部。
ケ○タのチキン食い放題に行く部。
早朝にワールドカップの日本代表を応援する部。
流しそうめん部。
流しそうめんから派生させた、大部分を隠していつ流れてくるか分からない緊張感を持たせる隠しそうめん。
BBQ部などなど。
一度に全ての夏を楽しむ写真を撮る。
とにかくなんでもやりました。(畳が焦げました)
並行して農業方面でも町のイベントでいぐさ収穫をしたり。
私は農業に関してはほぼ見学や広報側でしたが、もっと参加すれば良かったなと今は思います。
その甲斐があってか分かりませんが、徐々にゲストさんが増え始めます。
海外の方も来始めました。
ラジオの取材が来たりもしました。
宿長をする間、当時の有鄰庵のオーナーさんと他県のゲストハウス見学に行ったり、瀬戸内海周辺のゲストハウスオーナーさんの集まりに参加したりしました。
宿側のリアルな話を聞けたり見れたりもして、かなり色々と勉強ができました。
岡山に滞在する間に新潟から自分の車を持ってきて近隣県や四国に渡ったり色々と見て回ったりもしました。
新潟に比べて西の方は色々と面白いことをやってる印象も強かったです。
そんな日々を過ごしつつ地元新潟に戻って宿立ち上げを目指すため、どこまでを目処に岡山で働くかを決め始めていました。
夏の1ヶ月に定員10名程の宿で総宿泊数150人超えられたらOK!くらいに考え、それを目標にしました。
なので1日5名以上ですね。
観光で呼び込めない町で、この宿だけでそれだけ呼び込めたら良いだろうという考えでした。
結果、呼び込むことができました。
もちろんスタッフみんなで協力して頑張ったおかげです。
スタッフが辞め新しいスタッフに入れ替わったり、オーバーブッキングなどの対処、資金のやりくりなど悩むことは数えられないくらいありました。
これらは100、1000回宿にゲストさん側で泊まっても経験はできないでしょう。
今思っても宿立ち上げから裏方に入り、宿長として携われて良かったと思います。
これらを自分の資金だけでこれをやるとなったらかなり苦労するのですが。
実際にねまるでは苦労しました(してます)。
写真で振り返れば楽しそうに見えるのですが、割と泣いたりもしました。
いぐさ栽培での町おこしを名目に立ち上がったゲストハウスでしたが、宿業をしながら町おこしはかなりの労働ということが分かりました。
他にスタッフが居たり有鄰庵と連携していたのでまだ良かったのですが、これを一人でやる気にはなれません。
ただ、観光を売りにしていない町の宿に多く人を呼べたのは、今後自身で宿を立ち上げるにあたって大きな自信となりました。
とにかく宣言して一歩踏み出すこと、これが大事。
夏が終わった頃、宿での仕事を辞め、自身の宿を立ち上げるために新潟に戻ります。
とその前に、また西の方に旅をし、様々な形態のゲストハウスに泊まってオーナーさんと話をしてから新潟に戻りました。
地元新潟に戻り、いよいよゲストハウス立ち上げ準備が始まります。
つづく(またいつか)。